2025年2月15日土曜日

温故知新、過去を振り返り、未来を考えるコラム。新連載、1989年くらいから1991年夏までの回顧と未来を考えるコラム。その一

 今日、このエリアだったら、丸和の桃太郎便のトラックもコープデリのトラックもDNPロジスティクスのトラックも見る事は無いだろう、と言う地域で仕事の面接をした。履歴書を渡して、話し始めると、サイゼリアのウェイトレスが声がでかいから静かに話せと言う。ちょっとくじかれたが、声のトーンを落として、1990年から1991年までに自分が乗り越えた試練を要約して少し話した。ホントはというか、ここから話し始めて2002年くらいに至るまでを話していると、半日かかるので、過去の話は止めて未来の話をした。でも、話したかった思いは残ったので、帰りの電車の中で、「blueiris.jpでコラムとして、少し本当のコトを話そう、日本全国中に向けて」と思い立ったので、コラムとして、新連載として、過去の記憶と、そこから見える人間の真実、世界の真実、人間の実存の意味とかを語っていきたい。


前哨戦としては、1989年の夏くらいまでは、秋葉原のゲームセンターのゲームインファンファンでアルバイトしてたのか。パチンコで稼ぐの大好きな、蕎麦屋経営の店長に雇われて、秋葉原で秋葉原情報を収集しながら、アーケードゲームのメンテナンスまでこなして、同僚は、足立区のバイク乗りとか、信用金庫に就職が決まった大学生、パイロットを目指しながら、視力が足りなくて、ゲーセンでバイトしているアムウェイの営業やってる大学生で中野って言ったかな、あと幕張の青木君。夜勤は、呉速軍君と何さんという中国人留学生、この頃はバブルが膨らむだけ膨らんでいく方向で、世の中何でもエネルギーがあった時代だ。私も将来のことは、少し考えたけど、何をやって生きて行くか決めていなかった時期だった。青木君というのは、ゲームをやりたいが為に、高校行かなくて、適当に生きて居たゲームマニアだったけど、GM商事の社員でゲーセンに勤めるようになって、給料で、当時馬鹿高いシャープのX68000を買って、あの当時最高のパソコン環境でグラディウスとかやってたんじゃなかろうか。ワルキューレの伝説の直撮りゲームサウンドをカセットテープに入れて、私にくれたり、一緒に春日部に行って、当時春日部駅東口のパチンコ屋の後のゲーセンSUNで一緒にゲームやってたりしてた。私も、昼メシは立ち食い蕎麦屋の天ぷらうどんだけで、お金を貯めて、LAOXでSONYのMSX2のHB-F1XDと、販促品のグラフィックツールとマウスを買って家のテレビに繋げてCGとか描いてた。楽しかった時期は終わり、アムウェイ営業の大学生を疎ましく思って、辞めた。ほとんとこの時期はパソコン趣味とゲーム趣味の人間と、秋葉原に来るアメリカ人とか、噂でソ連のスパイが電子部品を買っているらしいとか、当時ハッカーという雑紙に載ってたそう言う世界で楽しくやってたけどな。この頃は本当にゲーム三昧・パチンコ三昧で、お金に困るコトは無かった。大金は手に入れられなかったけど、毎日自分の興味や好奇心を満たすためには十分な金回りだったな。で、ゲームインファンファンを辞めて、スギモトの情報で、新宿の警備会社に入ることになった。スギモトはコンサートの警備スタッフだったのは学生だったから。私はフリーターだったから、品川だかのいすゞの本社ビルの建設現場の警備員を一週間、と言う事だった。一週間新宿の警備会社で寝泊まりして、品川に朝の6時に通うのである。何の教育も受けずに、ミキサー車50台誘導してたりして、夜中になり、まだ残業している職人に声掛けて、職人より早く帰った事もある。1週間勤めて、向いてないな、と思いヒマを貰って、自宅に帰った。ここまでは、そんなに、試練らしき試練というモノは無い。ここら辺から、話がおかしくなり始める。昭和63年の話になるのかな。東京から戻って、求人広告でイトーヨーカドー春日部店のスタッフのアルバイトに応募して、採用で、荷受けの仕事をした。ここで、まぁ先輩が私と同じ位の年の人で、社会儀礼が出来る人で、話して見ると、米国留学すると言う。で、辞めていって、残された私が大変だった。辞めた先輩が、人当たりが良くて、誰からも覚えられる、優等生だったから、内向的で、絵を描くのが好きだ、とか一人で本を読んで学ぶのが好きで、人の世の付き合い方など親に全く教えられていない若造が後をになう事になって、常々先輩と比較されて、苦痛だった。直上の正社員の男性にいつも比較されて言われるので、2ヶ月くらいでやめた。この時、イトーヨーカドー春日部店で昭和の終わりと昭和64年と平成元年が始まったのだったよな。確か。辞めた時は、世の中は自粛ムードで、井上陽水の車のコマーシャルが放送中止になるような時代の変化だったかな。おげんきですかぁ?だったよな。で、イトーヨーカドー春日部店を辞めたあと、多分新宿に映画を見に行ったんだと思う。その後代々木の駅のホームで、看板で東洋美術学校の看板を見て、夜間グラフィックデザイン科という夜間があると知って、「ああ、そう言えば高校生の時、絵でメシを食うのはまぁ無理だけど、アニメーターも貧乏だから無理だけどデザインなら食っていけるかな」と思って、東洋美術学校の夜間グラフィックデザイン科に入学を決めた。何もないままフラフラ生きて居る訳にもいかないけど、学校を出れば、デザイナーで就職できるんじゃないのかな、と言う、今振り返ると甘いも大甘な覚悟で、母親になけなしのお金で前期のお金貰って、東京の新宿区曙橋で、私はデザインの道に入ることになった。ここで試練の終了フラグが昭和の終わりと平成の始まりと期を同じくして中島家に訪れていた。草加のセガのゲームセンターで働いて居た弟雅樹が、風邪で寝込んだまま数ヶ月経っていたのである。風邪で具合が悪いと、バイトにも通えず、寝込んだまま、で、病院に連れて行くと、肺に水が溜まって、心臓が肥大化して緊急入院である。肺の水は抜けたけれども、心臓の肥大化と弱体化は戻らない。拡張性心筋症という春日部市立病院の診断で、余命半年とか、そういう終了フラグが立っていた。自分の産んだ可愛い我が子の死の予感で、母親の中島英は、「心臓がドキドキする」と寝込んでしまって母親の様子もおかしくなってしまった。「この母親の様子は変だ、なんの病気なんだろう」と私は思って、一ノ割駅前に当時存在していた一ノ割東武ブックスで医学書を立ち読みして、当てはまる病名を調べた。そうすると、「うつ病らしい」という結果に至って、電話帳で、精神病院を探したら、高校生の時、網膜剥離の手術でお世話になった、順天堂の名前のついた順天堂越谷病院にたどりつくのである。当時中島家で正気だったのは、私一人であったから、電話して、母親の症状を報告すると、すぐに病院に連れてきてくれ、と言われ、タクシーで順天堂越谷病院に連れて行くと、重篤なうつ病の症状だから、入院させないと心臓止まりますよ、と言われる。中島家に入院させるお金は全くなかったから、事情を話して、自宅で薬を飲ませて療養させることになった。こうなったのが、1990年の春から夏にかけての話。オヤジ?酒を飲んで寝るだけで、何も出来ないんだよね。船にばかり乗っていたから、陸の事は何も出来ないに等し買ったのではないか。その1990年の春に、東洋美術学校夜間グラフィックデザイン科に通いながら、休み、昼は働こうと、フロムAで見た、大日本物流システム市ヶ谷の日払いの市ヶ谷工場の荷役についた。これが30年後の終了フラグという遠大な、失敗の始まりだったけど、この当時は、「一日働いて、日給が貰える」とか、「イラストレーターになりたいのだから、デザインや印刷の実際を学ぼう」とかそう言う理由で、市ヶ谷の当時の大日本印刷市ヶ谷工場に出入りすることになった。上記の通り、実家は地獄と混乱に陥りながら、私は務めて真面目に学校で学び、市ヶ谷工場の業務4課を中心に製本や印刷受けや、五反田工場や鶴瀬工場になんか回された。久喜工場はこの当時から存在していたが、久喜に回されることは無かった。ここで、物流系のスキルを身につけてしまったが為に、倉庫で働く事に順応性を獲得してしまって、丸和運輸機関と言う倒産が予定されているような物流会社に11年拘泥されることになったのだった。夏休みが見込まれる頃、学校に納める後期の学費は自分で15万円稼がなくてはいけないと言う覚悟になり、夏休みは週5日とか6日、一日12時間の拘束で、日給6500円ほどの大日本、9月には、飯田橋の本の取り次ぎの会社の東販に9時5時のバイトで、Wバイトと夜学をこなして、二ヶ月で15万円作って、納めて、ホットしたかたと思ったら、日大板橋病院から、「家に帰りたい」と言っていて、自宅に帰って寝たきりになってた弟が風呂場で倒れた。朝、衝撃音で目覚めた私は、急いで弟を和室に寝かせて、声を掛けた。意識はあったが、私の目の前で、ふっと意識が消えて、死んだ様になった。慌てて心臓をマッサージしたら、一瞬、意識を取り戻して、「あれ?おれどうしたの?」と弟は言った。それが最後の言葉で、直後にまた意識が消えて、どうしてももう生き返らない様だった。慌てて、電話で救急車を呼んで、どうしたっけ、病院へ運んだか、その場で死亡確定で、そのままだったか、思い出せない。検死に警察官が来て、自宅で死体を検分したのは覚えている。死亡診断書が確定され、私が、市役所に死亡届を出したり、葬儀の手配、死後の処理とかを一切やったのである。私が21歳とか22歳の時、そう言う過大過ぎる試練と苦業を与えられたのである。それでも東洋美術学校夜間グラフィックデザイン科に通いながら、大日本印刷市ヶ谷工場で、ひたすら働いていた。製本機に向かって紙をセットしている方が気が紛れるような気がしたから。大日本物流システム市ヶ谷の業務四課は気のいいアニキ達がたくさんいて、無言で慰めて貰ったり、馬鹿話で笑い合ったりして、慰めにはなっていたな。葬儀の時は、学校の同級生で社長の息子のキクチ君とその仲間も訪ねてきた。オヤジは、弟の死体写真を海外から持ち帰ったポラロイドカメラで撮影してた。死体写真を撮るのが、父親の愛情だったのだろう。俺は、その時、何も出来ない父親を憎んだが。そんな過酷な試練を乗り越えて、冬が過ぎ、春になって、東洋美術学校夜間グラフィックデザイン科を卒業することになった。成績は、首席卒業であった。少なくとも、卒業式の時は自分自身で誇りに思えるのと、悲しい気持ちを隠して、新宿でパーティーをして、それで、最後まで話した女の子とも別れて、一人新宿から春日部へ帰った。卒業しても、就職は決まらなかった。東洋美術学校は夜間科には就職の斡旋をしない。昼間生で二年制・四年制には就職は斡旋するが、夜間にはない。だからフロムAを見ながら、デザイナーでの就職を探しながら、継続で大日本印刷市ヶ谷工場で働きながら、原宿・青山、デザイナーを訪ねて回った。ここでも30年後の終了フラグが立っている。ここで、「折角これだけの苦労でデザイン学んだんだからデザイナーの就職を」と単一思考でこだわってしまった。そして、最終フラグの、メタ+マニエラのアルバイトの面接を受けてしまった。そして、今でも、思い出すのは、アートディレクターの大賀匠津氏との面接の中、7月暑くて、メガネを取って汗を拭いて、私の素顔を見せてしまったのである。大賀匠津氏が驚いたような顔になり、その時、アルバイトの採用が決まり、つまり、顔採用で、8月末までの、職業訓練のつもりのアルバイト雇用だったはずだった。これが10年後、さらに20年後、の合計30年の間違いと失敗の始まりだったのだ。ここで、メガネを取らずに、どんくさいヤツと、不採用になり、春日部で、ドライバーやフォークリフトのバイトや正社員やりながら、コミックマーケットや同人誌即売会で同人誌作るような人生を選択していたら、20代で結婚して、持てる才能を遺憾なく発揮して、幸福な1999年を迎えていたかもしれない。もう30年、失った時は帰らないが、リセットは出来る。そしてリセットした後に、新しい10年を構築するコトは53歳の今から未来を見据えても十分可能だと思う。今まで働いた会社組織を全て、カットアウトすれば。そう考えている。今の所それも、難しいが、少しづつ改善していきたいと思う。2021/10/03


まぁここまで過去を振り返って、現在を見て、なおかつ未来を考えると、千葉・埼玉の倉庫なんて、実は30年以上、技術・内容に進化とか進歩とか技術革新とか、ほとんど無いと言って過言でないです。この四ヶ月とかで、つくづく思った。相変わらず30年以上、人海戦術のママで、刺激があるとすれば、外資のAmazonの指導でDXが出来ている所が、少し技術革新があるだけで、30年、内容が全く変わっていない。せいぜいハンディターミナルの登場や、ソーターの性能の向上くらいだけど、全く刷新する様な新しい技術も、そもそも、「俺やってみる」とかって若い人は全く入ってこない。つまり未来がないです。10年後、外国人に置き換わられるどころか、会社が外国の資本の外国人の経営者とスタッフで、日本の物流が置き換えられるか、生き残りたかったら、基礎英語1とか2くらいの英語力と、ITパスポート試験合格くらいのITリテラシーが無いと、日本人は物流からハブられると、直観しています。少なくもう私は派遣で倉庫とか、派遣で物流とかアルバイト・パートですら、物流系には、戻らないつもりで、9月30日で、極悪派遣会社とは縁を切ったつもりで、10月2週から新展開です。

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