1968年、俺が生まれた年の曲だよ。
こう、週五日とか六日で建設現場やりこむと、日当手取り8千円で、シミジミする。シミジミしながら、ふと頭のなかにこの「山谷ブルース」が流れる時がある。去年は所属している会社が業務改革が進んでいなかったので、日当を貰うのに、ハンコ持って秋葉原の事務所に行って、紙の台帳に書いてとそう言う給料の貰い方をしていた。それしか無かった。その時も、やっぱり「山谷ブルース」がアタマの中によぎる瞬間もあった。いつの間にかというか1年経過してたらコンビニATMで受け取れる様になったので、まぁラクになった。それでも、泥に汚れたワークマンで揃えた上下を着て、大宮ルミネのメンズのブティックをちょっと覗くと、いいコートやアウターを見つけたりするが、ビジネスウェアでは無いので、店員と距離感を感じたりして、そこら辺でもちょっと住んでいる世界が大宮のコンコースでは違っていたりする感触は実はそんなもんだと大宮東口の喫煙所でタバコを吸って、それで終了だ。昔、そういえば、19歳とか二十歳の頃、ちょっと山谷の労働者に憧れたというか、考えた事あったよなぁ、と32年前を思い出したりする。32年前のちょっとした思考だ。32年後の東京圏の建設現場はどうか、と言うと、もう住所が無い、とか緊急連絡先が無い、とか、社会保険に加入していない、と言う人間は建設現場では働けないようになっている。去年の建設現場、野田市の物流センター、また建設現場、と経て理解したのは、その山谷の日雇い労働者の悲哀は、柏から春日部、国道16号線沿いの倉庫・物流センターなどが、今の山谷ブルースだろうと思う。2005年、意気消沈して春日部に帰ってきた私はタウンワークで、なんだかあっと言う間に仕事にありつける、「派遣社員の固定」という職で、吉川市の丸和運輸機関に入ったのが、倉庫・物流センターでの派遣社員という今となっては最悪の中の最悪な選択というか一択敷かないように感じて、固定から日雇い派遣、パート、倉庫・物流センターは希望が持てないと言う事でスーパーの夜間スタッフとか、楽しめない仕事でかろうじて生きてきた。夜の慰めは、「東京のデザイン職のビジネスモデルでは春日部では立脚しないから、しょうがない、コンテンツを自分で作り、自分で装幀し、自分で出版する出版社を作ろう」という覚悟で、小説をおずおずと書き始めた。小説を書いている人の意見を参考にしようとツィッター、クソ2ちゃん・5ちゃんとやり、ゴミと会話をし続けて気が付くと10年を超えて、倉庫関係と夜の小説・絵画の修行をやっていたことになる。倉庫・物流センター界隈だとだから昔の山谷の悲哀に通じる、悲惨な人間に結構出会う事が多かった。会社を潰して、毎日の日給を倉庫の隣のコンビニで毎日借金を返していて、100円ライターすら買う余裕の無い元社長とか、埼玉県最低時給のパートの男性フォーク、オンナなんかできっこない月給手取り10万円で、どうやって生きて行くんだ、と言う。それとか、建設現場の警備員を干されて、他所の倉庫で切れて辞めて、野田市川間の物流センターに流れ着いて、48歳なのに、俺より年寄りに見えて、金も無いのに毎日酒を飲み、国民健康保険税を滞納しつづけ、給料の差し押さえを喰らっている、とか俺に言う貧乏神とか。15年の記憶で振り返る。柏のチンケなスポット専門の派遣会社に登録しにいった。禁止事項を見ると、柏周辺のスポット派遣でしのぐ人間たちの、悲哀と悲惨さが理解出来たりしてた。15年の記憶と、最近の記憶と体験とで言えば、もうこの辺の倉庫・物流センターでは働けない。と言う事だ。この一年で、如何に倉庫・物流センターで働くと人間の質が悪くなるか、しっかり解った感じだ。そんな記憶がぶり返したりすると、やっぱり聞こえるのは「山谷ブルース」なのである。今は「俺たちがいなけりゃAmazonの荷物も、宅配食品も届けゃしねー」だろうか。ああ、思い出すと寒い。気を取り直して働こう。2020/11/28
現在の心境。「異国の丘」を口ずさみながら、金野井大橋を渡って千葉県野田市川間村尾崎部落の物流センターに通っています。
ええ、2020/10/23に、北朝鮮の強制収容所からソビエト軍に拠って、シベリア抑留生活という印象に変わりました。「我慢だ まってろ 嵐がすぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」です。(^_^;
明日から、金野井大橋をバイクで渡る時、「異国の丘」を口ずさみながら、水戸連隊の戦友たちと、舞鶴港へたどりつくその日を夢見て、シベリヤ(千葉県野田市川間村尾崎部落)で奴隷労役をこなします。2020/10/24
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